本を創る〜編集者という存在

昨年の秋から取り組んでいたアートセラピーの本が3月に刊行されます。
今は、印刷への最終入稿を控え、最後の色校正を終えたところ、いわゆる9合目を越えたところでしょうか。

秋から休みなくPCとにらみ合いながらお正月を迎え、ようやく原稿を書き終えたころ「今8合目あたりですか?」と聞くと、担当の編集者の竹下さんから「いいえ、まだ5合目です」と言われ、正直目の前がクラクラしましたが、晴れてようやく頂上が見える所まで来ました。(メデタシ、メデタシ)

気づくと、忙しさからは免れましたが、出版前からお祭りが終わったような寂しさも感じています。本は出るまでの待ち遠しさ、楽しみもあるのですが、私にとってはこの制作の期間がなによりの喜びだったように思えて来ました。
きっと、本を創ることの楽しさの味を占めたのでしょう。3月に河出書房から刊行される本を入れると、4作目の著作となるのですが、改めてそれぞれの制作のプロセスが蘇ってきます。

本を創るプロセスでは、実に多くの人の助けが必要です。
実際に出版される本の表紙には、著者の名前しかありませんが、舞台の主役を割り当てられたようなもので、表には見えない所で実に様々な物語が展開されているのです。

そんなストーリーをとてもドラマティックに表現した本を先日読みました。
ふらりと立ち寄った本屋で(またまたタイトルに興味を持ち)手にした本は、見城徹氏の「編集者という病い」太田出版刊でした。
かのベストセラーを数々生み出した幻冬舎の名編集者として有名な方の処女作です。その本で彼は、30年の編集人生で体験した出来事を紹介しながら、自分自身の生き様を振り返っているのですが、メジャーな出版業界ならではのエピソードは、なにやら週刊誌を読むような好奇心をそそり、何でか後ろめたい?ような気分を感じている自分が可笑しかったです。(関係ないですね。笑)

表現アートセラピー画像2私は編集という仕事をしたことは無いのですが、著者の対極に位置する編集者の視点にとても興味を持っていました。見城氏が著作の中で「表現者(著者)たちにとっては一番書きたくないものが、編集者には一番書かせたいこと」という言葉がありました。たぶん多くの本の制作の現場ではこの言葉にあるような物語が繰り広げられているのだろうな、と想像してしまいます。

こんな私ですが(大阪WSでの合い言葉)自身のエッセイを書くことになった初出版の折、当初は絵本を描くという企画でほぼ通っていた話が、途中で「エリさんのプライベートな生活をテーマにしたイラストエッセイにしてください」と編集者に言われたときは、相当抵抗したものでした。
自分の事を書くことがイヤでイヤで、本気で本を出すのをやめようと思ったくらいです。
でも、こんなチャンスはないと、結局は根負けしたのですけど・・。
出版者側は、やはり売れそうにない本は出したくないので、そこのところ大変シビアに詰め寄ってきます。表現者である作家の思い入れなどに負けては居られないのでしょう。

 「編集者という病い」著 見城 徹表現アートセラピー画像3もちろん見城氏が言うところの、表現者の書きたくない部分を引き出すという意味は、決して売り上げ目的ではなく、読者が読みたいものを探し出す勘、つまり「匂い」を編集者は知っているからではないかしら。
それは、たぶん編集という仕事の勘所であり、スリリングな部分なのでしょう。
作者が自分の言葉に酔って、エゴ丸出しの文章を書いていると、ばっさり「ここ、いりません」と涼しく切り捨てられてしまいます。(苦笑)
絵本の物語を書いているとき、1小節まるまる、編集者が書いてしまうということがあったり、さすがに編集者はゴーストライターなのかもしれない、という印象を持った時期もありました。

振り返ると様々な出版社や編集者の方とお仕事をさせていただいた中で、感じるのは、プロフェッショナルな編集者は皆本を創るという仕事を愛しているということです。ひとつの本を創るとうプロジェクトに、同じステージで取り組んでくれるのが編集者であり、制作のプロセスを旅だとすると、水先案内のような存在でもあります。

表現アートセラピー画像5興味深いことは、私が知っている編集者の誰もが文才があり、才能豊かな人ばかりなのにも係わらず、誰もが自分の本を書きたがらないという共通点があること。「編集者という病い」という本の中で、見城氏も長い間自分の著作を創らないと決心していたことに触れていましましたが、表現する者、それをさせる者のスタンス(仁義のようなものでしょうか)があるのだそうです。

彼はその後自著を出版するにあたっての経緯をこんな言葉で表現しています。
「表現というのは、非共同体であること。すなわち個体であることの一点にかかっている。イエスの喩えの中に羊というのが出てきますが、僕は百匹の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちるたった一匹の羊の内面を照らし出すのが表現だと思っている。そのために表現はある(中略)一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はある。表現でしか救えない問題をこの世でたった一人しかいない個体としての人間は背負っているのです。」

表現アートセラピー画像4表現という手段が個性を生かすという氏の言葉は、編集者というオブザーバー的な存在に課した禁を破り、対極にある表現することへの思いを綴った決別のような潔さを感じるものでした。
私にとっての、本の制作の共同体の一つである編集に携わる人達は、とてもスマートな生き方をしている存在なのです。

今日は、本を創ることについて、編集という仕事にスポットを当ててみました。
本の制作のプロセスや、顛末記については、追って書いて行きたいと思いますので、どうぞまた読んでくださいね。