支配の構造~自己を愛するレッスン5

昔、スピリチュアルにはまっていた頃に読んだチャネリングの本に、「テレビは嘘の情報で洗脳されるから見ないほうが良い」と書かれていたのを読んだことがある。

その当時の私の一番のお気に入りの番組がニュース番組だったので「それは絶対、無理…」と信じなかったが、ある時、引越を境にテレビや新聞が無い生活をすることになった。気づくともう10年以上になるが、不思議と困ることは無い。むしろ、雑多な情報に振り回される時間が、もったいないし、疲れるようになった。

どうしても、印刷された活字やテレビの画面に映る映像は、真実味をおびているように見えてしまうが、現実ではない。今の時代、家の中に座ったままで、地球の裏側にも宇宙の果てにも行ける。望めば、過去にも未来にも…。しかし、考えてみると、それらはすべてバーチャルなのだ。リアルな体験以外は、すべて自分のI空間の中の想像の産物にすぎない。現実と虚像との相違~それは、こんな強烈な体験から学んだ。

昔、インドに旅した時のことである。

早朝、ハリドワールの街を散歩していると、歩道の上に転がっている見るも無残な死体に出くわしたことがあった。インドでは、亡くなった人を火葬する際、十分に燃やすための薪を調達できない貧しい人々は、ろくに焼かずに河に放たれてしまうことがあるそうだ。後から近所の人に聞いた話によればそのご遺体も、ガンジス河の上流にある火葬場から流れ着き、野犬によって引き上げられ襲われてしまったらしい。

人が死んでいる映像はニュースや戦争の記録映画などで何度も見たことがあったが、実際に見るのとは、わけが違った。それほど損傷のひどい死体は映画の中でしか見ることはない。ニュースならモザイクものだろう。

その光景を目にした時、一瞬何が起こっているのか理解できずにいたが、それが死体なのだとわかるや否や、身体が凍りつくのがわかった。死を目の前にした時、こんなにも自分の生が脅かされるのかを、その時はじめて思い知ったのだ。

私は、すぐに立ち去ることも出来ず、息を止めてしばらく木偶(でく)の坊のように突っ立っていると、やがてなんだかそんな自分が可笑しく思えてきたのである。死体は自分を襲ってくるはずもない…(ゾンビじゃあるまいし)と、正気を取り戻した私は思った。

これは「聖なる一つの死」と出逢った経験なのだ。

そして、彼は「死体」ではなく、在りのままの死を教えてくれた貴重な教師だった。

ようやく平静を取り戻した私は、平和な気持ちで「御遺体」に合掌し、別れを告げた。

それは、実にリアルな体験だった。

日頃、私たちは安全な場所(テレビの前や、批判する相手が不在の場)で、無表情に時には軽々しくヤジを飛ばしたりしながら、対岸の火事を片付ける習慣が身についている。それは、本当の事を何も知らないで、何も経験していないのに等しいのかもしれない。アマゾンのレビューを読んで、本を読んだような気になった私のように…。

そして、自分が何も知らないことにすら気づいてもいない。そんな私たちが、自分の意見などを持っていると言えるのかが疑問になってきた。

あるとき私は、多くの人が、自分の意見(主観)や本音と、自分軸を混同していることに気づいた。自分の意見を持っている人や、本音を堂々と言える人は、自分の軸を持っているという印象があるが、果たしてそうだろうか? 

ここからが、本題だ。((^_^;)

対人関係の争いのほとんどは、お互いの考え方の食い違いから起こる。自分の考えが否定されたり、わかってもらえない時、誰もが心に壁を立てるか、争って自分の考えを守りたくなることがある。しかし、よくよく考えてみると、そこまで必死になったり、自分の考えをそんなに貴重だと信じ込んでいる人間って、なんだか可笑しい。

そもそも、私たちは自分の考えを持っていると言えるのだろうか? オリジナルの考えを持っているとするなら、それはいつ、どこでゲットしたのだろう? 

まさか、生まれた時に持ってくる人はいない。(赤ん坊は、言葉を知らないから、感じるけれど、考えない。)やがて言葉を知り、考えが親から与えられるのだ。

「アイスクリーム、美味しいね~」とか、「ワンワン、かわいいね~」など。(動物嫌いな親に育てられたら、こんな風にはいかないけど…)どんなに英語やフランス語で考えたいと思っても、日本語で育った私たちは、別の言語で考えることができない。

つまり、ふだん何気なく使っている思考とは、言葉の構成、記憶の集大成なのだ。そして、実のところオリジナルの「自分の考え」や、「独自の考え方」など浮き雲のようなモノで、(雲に停留所がないように)そもそもどこにも存在しないものなのである。

「自分の考え」と言えるものがないとしたら、もう一つの自分軸はどうなっているのだろう? 

自分の考えを持っている人は、自分軸があるような印象を人に与えそうなのだが、よく考えると自分軸って、普段はあまり意識するものではない。

「自分軸」とは何かと辞書を引いてみると、「自分を大切にする考え方」とか、自分の「信念」とある。つまり、自分が信じる価値や理念、価値観などを指している。私が子供時代に自分軸を失わずにいられたのは、自分の好きなモノを大切にすることができたからなのかもしれない。その時はそれが自分軸だとは気づかなかったけれど…。

意志が硬い人は、「軸がある」といわれる。簡単に自分の考えを変えたり、優柔不断ではない「自分を持っている人」という印象を人に与えるからなのだろう。

なんだか、自分軸とは大切なものだと言えそうだが…、その軸が、簡単に人に奪われてしまうものなのだということをご存じだろうか?。

自分軸は、「好き、嫌い」「大切か、そうでないか」を選別する感性なのだが、生存にかかわるジャッジが働くとき、人はこの軸をあっさり明け渡してしまうことがある。

たとえば、子供が親の庇護を求めるように、親に支配されている人は、生き延びるために、この軸を親に預けて(いいなりになって)しまう。または「恋する相手に、心を奪われる」というけれど、誰かに夢中になると、一瞬で自分軸を相手に明け渡してしまうことがある。…というか、むしろ自ら望んでそうしたくなるのが恋愛であるが、これは放っておいても、恋が醒めるのと同時に軸が戻ってくるから心配はない。(笑)

もっと深刻なケースが洗脳やマインドコントロールだ。前回書いたが、飲み屋で説教する輩も無意識にマインドコントロールしているようなものだが、元々は戦時下の捕虜に対し行った行為だった。

洗脳されると、人は軸はおろか、I空間のプログラムから、システムのコントロール権に至るすべてを他者に委ねてしまって、自分ではまったく判断することもできなくなる操り人形やロボット状態に陥る。

つまり、自分軸を他者に明け渡し、好きな事も嫌いなこともわからなくなってしまうのである。洗脳されてしまう人とは、そうとう自分が無いカオナシ*のような「自分が無い人」を思い描くのかもしれないが、現実はちょっと違う。

かつて世間を震撼させたオウム事件を皮切りに、宗教にはまり込んでしまう優秀な人達や、有名人などが、洗脳騒動や事件に巻き込まれていた。

どちらかといえば、人から洗脳を受けてしまうというより、自分達の能力で大衆に影響を与えるパワーを持っていた彼等が、意図も簡単にそして驚くほど長い年月の間、コントロールされていたのである。

それは、才能や頭脳の明晰さ、そして名声が自分軸を保つ理由にはならないという証になるだろう。

自分軸を失った人は、どんなに愛に満ちていようと、マインドコントロールする人から嫌われないために、意に沿わないことをやり続けてしまう。時には、残忍なサイコパスのマインドコントロールにより、命令されて自分の家族を殺してしまった人々もいる。いつの時代になっても、このような事件が枚挙に暇が無い。

自分の軸を失って、好きも嫌いもわからずに、やりたくないことを(やりたいことなのだと思い込み)やってしまう。それがたとえ、家族を殺し、自分をも殺すことでも…。

これがホラーでなくて何だろう? 

お化けはせいぜい映画でしか登場しないし、死人は生きかえって襲って来る心配もない。しかし、現実の日常では自分の感情を奪おうとするバンパイアがあちこちにうろついているのだ。

これは特別な人達に起こった特異な出来事なのではない。実は、私たちは日常的にマインドコントロールされていることに気づいていないだけなのだ。

先のマスメディアの話のように、毎日当たり前に見ている情報によって、私達は操作、支配され、中毒になっていることに気づいていないのだ。

このようなマインドコントロールが行われる世界において、自分の軸を見失わずに生きる術があるのだろうか?

ここまで、長いプロセスを経て心の構造について理解していただいたので、次はいよいよ、有効な使い方をご紹介したいと思う。

次回は、(やれやれ)ようやく最終回。(笑)

自己を愛するレッスンをはじめるための実践編!

自分軸の見つけ方と守り方、自分を愛する極意についてご紹介しましょう。

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