国境線をこえて~自己を愛するレッスン4

あなたには、本音を話せる人が何人いるだろうか?

あるアメリカの調査によれば、悩みを打ち明けることができる親友の平均数は0.8人だという。それに対し、日本では2.2人。(日本のほうが多いんだ…。意外ですね)

日本には「腹を割って話す」という言葉があるが、腹を割って話す内容とはきっと本音に違いない。しかし、大人になると腹を割って話せる人が少なくなるものだ。
それどころか、リアルにつきあうよりも、ネット上の交信に夢中になる人が増加しているらしい。
確かに、フェイスブックを開けば元気そうな様子は一目瞭然だから、実際に逢って「元気?」という挨拶をする必要もない。

SNSで充実した人生をアピールするために友人のふりをしてくれる商売があるという話を聞いてビックリしたことがある。
そんなことをしてまでリア充を装いたい人はさすがにあまりいないのかもしれないが、面倒な関係を結びたくないと思う人は増えているような気がする。

友人同士、自分たちが表面的なつきあいなのかどうか、お互いに気づかないこともあるだろう。二人きりで数時間話せば、腹が割れる話ができるわけとも限らないし、親しい間柄というわけでもない。

ある時、レストランで食事をしていたら、真後ろに座っている二人連れの客の話し声が気になったことがある。内容にではなく、状況が異様だったからだ。

たしかに二人連れが座っていたはずなのだが、2時間以上経っても一人の女性の声だけしか聞こえてこないのだ。

相手の女性はただひたすら相づちを打っているようなのだが、その相づちの声さえ聞こえてこなかった。
私は、彼女がどうして2時間以上も無言のまま話を聞き続けられるのだろう?と頭をかしげたが、もっと不思議だったのは、弾丸トークの彼女のほうだった。どうしたら、一人で2時間以上よどみなく話し続けることができるのだろう?

こんな風に人は誰かと一緒に過ごしているとしても、共通の時間を共にしているとは言い難いことがある。それどころか、共に過ごしながら、お互いに孤立してしまっていることさえあるのだ。

相手の顔も見ずに話している女性にとって、相手は誰でも良かったのだろう。そして、そんな相手と無言のまま2時間以上も過ごせる彼女は、誰でもいいから一緒に居てくれる相手が必要だったのかもしれない…。

そんな勝手な想像をしながら、私はその店を出た。

「すべての悩みは対人関係から生まれる」と、アドラーは言う。もし、そうならいっそのこと、人間関係など持たないほうがよいのでは?と思うだろう。だから、多くの人が本音を言わず、自分の殻に閉じこもるのかもしれない。しかし、それでは一生、防空壕暮らしではないか?

それでは、ここで少し視点を変えて、人間関係を国際情勢に例えてみよう。
世界地図をひろげると、国を表す線(国境線)が描かれている。あれを、小学校の頃に色絵筆で塗り分けたなあ…。好きな国や県には好きな色にしたりね。(私の小学時代は随分昔だけど、今もやっているのかな?)

日本は島国なので、国境線に対する緊張感が少ないが、これが、パレスチナとイスラエルならどうだろう?行ったことはないが、きっと緊迫しているに違いない。

ある意味、国境線は自分と他人を分ける境界線のようなものである。人間は、身体という物理的な境界を持っているが、心にも境界線が存在していることを知っているだろうか?

人が対人関係を怖れて孤立したり、自分と他人を比べ対立してしまう理由の一つは、この境界線の混乱にある。

境界線の混乱や引き方がまずい例は次の通り。

自己価値感が低いひとなら、自分を尊重できず、自分の考えや感じ方を人と比べてしまい、自分の考えをねじ曲げてしまうか、その判断を他者に委ねてしまうケース。

一方、自信家の人なら、自分本位になりすぎて、相手の気持ちを無視するか、自分の意見を主張して相手をコントロールしようとするケース。
飲み屋などで、「だからお前はダメなんだ!」と連呼するオジさんがそれだ。議論になっていればまだいいが、極端に一方的だとマインドコントロールになって行く。どうだろう?身近にこんな人たちはいないだろうか? 

残念ながら、私たちの多くが、お互いのどちらかが間違っていると思い込むパワ-ゲーム中毒にかかっているのだ。しかし、これではとうてい幸せな人間関係など築けない。

でも、絶望するのはまだ早い。心が引き起こしている問題ならば、その構造についてもう少し掘り下げて見つめてみたら問題を解く鍵が見つかるかもしれないのだ。

心がそんな無益な支配や競争、対立を起こしてしまうのは、自我意識の生存本能によるものだが、人間がその自我意識=自意識という固有の意識のスペースにはまり込むことから起こっているのだ。インテグラル理論*では、この固有のスペースのことをI空間と呼んでいる。(難しそうな話だけど、どうか少し辛抱してほしい。この考え方は人や自分を理解するのにとても役立つのだ)

I空間とは、自分の思考や感情が生まれ、息づいている主観の領域のことを指す。解りやすい言葉で言えば「内心」という部分だ。そこで起こっていることは、他人には計り知ることが出来ない。例えば、あなたが昨日見た夢のことをあなたが話さないかぎり、誰も知ることはないように。

さて、実際の精神には、目に見える境界はないが、I空間は例えれば、一つの独立した国家のようなものだ。国に法律や慣習があるように、I空間には観念や価値感が定まっている。そしてそれらは、簡単に変わらない代物だ。

「人は信用ならない」という思い込みを持っている人は、心を開くことが難しいように…。そして、その思い込みは人によって異なるのだから、対人関係はやはり容易ではない。(という、これも思い込みだが…)

人づきあいが難しいように、国家間のやりとりも難しさがつきまとう。そのストレスを無くすためには、鎖国でもしたくなるだろう。人に例えると「ひきこもり」と同じだ。ただ、今の時代は、ひきこもっていても、ネットを使えば、人間関係は保てるようになった。例えば、自分の世界観から出ないまま、他者とコンタクトをとっている人に出逢ったことはないだろうか?

先の、2時間一人でしゃべりっぱなしの人や、他人に興味なく、自分の価値感だけがすべてだと考えるような傲慢な人。決して本音を言わない秘密主義の人や、傷つくのを怖れ、人を信用しない人など、相手の都合に無頓着(それでいて、自分の都合を通そうとする人たち)な人達…。彼らは間違いなくI空間の住人である。

しかし、あなたはそんなタイプの人とつきあいたいだろうか? 普通なら、健全な境界線が保たれた人とつきあいたいはずだし、自分も健全で在りたいと願うのではないか?

それでは、どのようにしたら、健全さが保てちながら、より良い人間関係が築けるだろう? それではもう少し、例のインテグラル理論を使って詳しく説明してみよう。

I空間のように閉じこもった領域に対し、他者との相互理解を可能にする共感モードをWE空間と言う。WE空間は、国交を交わす外交官が働く社交場のようなものである。健全な人は、この空間があるおかげで心のドアを締め切ることもなく、他者と情報をやりとりする能力を活用することができるのだ。

人がWE空間に在るとき、自分の秘密を打ち明けたり、相手の気持ちや立場を配慮することができる。つまり、自己中心的になったり、ひとりよがりにならずに、誰かの意見や助言を求めようという気持ちになれる中立的な状態のときである。

もしも、あなたが親や、教育者、または援助職のような影響力のある立場にいるのなら、このWE空間に意識を向けることは必須のタスクだと言える。

中立的というのは、誰にとっても良さそうな印象があるが、必ずしもそうでもないことがある。友好的な人にとっては、心地良く楽しい場所だが、傷つくことを恐れたり、本音を知られたくない人や、人の話を聞くのが苦手な人にとっては、危険な場所になってしまうからだ。

また、、引きこもりの人もそうだが、人の都合を考える能力に欠けるサイコパスのような人間に至っては、まったくと言っていいほど、この領域を持ち合わせていないことがある。

国交がない国同士の領土争いが始まり、最終的にはどちらか一方が、征服されてしまうという悲劇が起こる。

WE空間を怖れ、I空間にしがみつく人は、他者のことが見えないばかりか、自分の事さえ見えないままだ。I空間とは、在るがままの自分が見えない死角なのだ。

ちょうど、自分の鼻をちゃんと見ることができないように、自分を客観的に見ることができない立ち位置なのである。

他者との関わりや葛藤を避けるため、I空間に埋没してしまうと、さらにやっかいなことになる。

人との相違は自分を見出す機会だが、それを失うと、やがて自分が何を求め、何が好きで、何が嫌いなのかまで、わからなくなり、最終的に自分まで見失ってしまうのだ。

このように私たちは、I空間を囲む国境線の中で孤立しているが、そこに自分を追い込んでいるのは、誰でもない自分なのである。

やれやれ、問題は複雑だが、これが境界線の混乱と自分軸の喪失によって起こる現象である。

しかし、諦めるのはまだ早い。すべては、より良い人間関係を気づき、幸せを手にするためだ…
辛抱強く見ていけば、方法もかならず在るし、解決の糸口が見つかるに違いない。

その手がかりの一つ、自分軸の正体について探ってみよう。
叱られてばかりいた私が、子供時代なぜ自分軸を失わずに済んだのか? 軸はなぜ折れなかったのか?

次回は、この自分軸の正体とI空間の境界の混乱がまねくホラーである。自分を知りたくない人は、この辺りでやめておいたほうがいい。(笑)

勇気のある人は続きをどうぞ…。

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