ながい前置き〜自己を愛するレッスン

『嫌われる勇気』という本がベストセラーになっている。出版されて3年あまりで160万部売れているというのだから大変な人気だ。

いったい今の日本人は何を求めているのだろう?という疑問が最近になって涌いた頃、縁あってこの本を手にすることになった。

発売当初、心理学系の身近な分野の本だったのに手に取ることがなかったのは、アドラーに対し「古典」という認識を持っていたからかもしれない。失礼ながら「今時、アドラーなんて一体どんな風の吹き回しだろう?」と思ったのを覚えている。もっと以前に、フランクル心理学が流行っていたので、その次の流行がやって来たのだろう…とも。

内容を見ると、アドラーの教えを現代の一般的な人にも親しみ易く伝えるため、ドラマチックな物語に仕上げられており、本の紹介文には「まったくあたらしい古典」という謳い文句で紹介されていた(「古典」という言葉が書かれていたので、少しホッとする。笑)

参考にAmazon.co.jp(以降 アマゾン)のレビューを見ると、一千件以上に登っていた。その半数以上は肯定的なものだったが、2割近くは否定的な意見だった。むしろその否定的な意見の内容の方が気になった。

肯定的なレビューは手短に内容の面白さについてあっさりと書かれているものばかりなのに対し、否定的な意見の大半はとても熱のこもった内容が目立った。多くはこの本の功罪(←実際の表現)の根拠や、内容を読んで傷ついた心情が事細かに綴られている。

アドラー/Alfred Adler

現在でもアドラー人気は衰えず、「嫌われる…」の続編を含め、これまでにあらゆるアドラー心理学関係の書籍が刊行されて続けている。

日本においては、この本が売れるまでは、心理学界の重鎮であるフロイトやユングの影に隠れ、知名度は低かったアドラーだが、実は欧米ではフロイトよりも人気を博した心理学者の一人だった。

フロイトやユングと同時代を生きたアドラーは、フロイト学派に身を寄せていた時代こそあったが、論理の相違から後に「個人心理学会」を立ち上げ、分析心理学と一線を画することとなる。

フロイトは、自己の心理学を科学の世界で極めることを目指していたのに対し、アドラーは社会感覚が長けていたためか、研究を社会の中で実践的に役立たせたいと望んでいたという。また、フロイトがトラウマ(心の傷)の原因を原体験に遡り研究したのに対し、アドラーは過去(原家族)から解決へ(未来)に向けて進むことを奨励した。

さて、ここで話をアマゾンの批判的レビューに戻そう。

一般的に心理学を学んだことがない人や、心の傷(トラウマ)で苦しんでいる人が、真っ向から「トラウマなど存在しない」ということを言われたとしたら、納得がいかない気持ちになるのもわかる。

何しろ今や社会通念となった学術用語のPTSD(心的外傷後ストレス障害)によって起こる自律神経のアンバランスは、無意識の領域で起こっているので、本人の気持ちを変えても治らないことが多い。反発する人達の多くは、トラウマの否定に対する絶望感のようだった。

おそらく作者の本意とすれば、トラウマを否定したいのではなく、トラウマに捕らわれてしまうことをやめたほうが良いと進言したいのかもしれないし、アドラー自身が「心の傷」を否定しているとも思えない。

むしろ、傷に苦しむ人を助けるため、心という閉ざされた世界の中で何が起こっているのかを探究しようとしていたはずだ。

苦しむ人達は、無意識というコントロールを越えた世界と葛藤する。思考ではどうにもならない次元のことなので、本人の責任は問えないが、だからと言って誰がその責務を肩代わりしてくれるのか?

そこにアドラーは着目した。

生物は、意識の世界であれ、無意識の世界であれ、自分の為に役立たないことは引き起こさない。どんな苦しい症状であっても、それは病める理由<目的>があるのだという。

さて、それはどんな理由<目的>が考えられるのだろう?

アドラー心理学の根幹となる理論に「劣等性から優越性への欲求」という概念があり、彼が子供時代に患った器官障害を克服したことで、この理論が確立されたことは有名である。声帯が痙攣するという喉の障害は後に克服され、繊細に声を使い分ける能力を身に付けるきっかけとなったそうだ。

世の中、弱みを強みにしてしまったという逸話は多い。確かにそんな風に出来たら良いだろうと誰もが思うけれど、出来ないでいる人にアドラー心理学は、このような説明を展開する。

人間には、「弱さ」さえ無意識のうちに「言い訳=武器」という「強み」にできるような秘められたパワーが在る。つまり、「弱さ」はそれ自体が「強さ」でもあるというパラドックス(逆説)なのだ。そんなマインドのトリックに気づいて、自ら仕掛けた罠から解放されて生き抜くことが真の自立に繋がっていく。

こんな風に(人間という)有機体は目的に従って本能を機能させているのだ。

しかし、困ったことに問題はもう少し難解だ。
当の弱気な本人はそんな能力には気づかない。気づかないのではなく、気づけないのでもなく、気づきたくないのだ。

気づいてしまうと、弱い自分でいられなくなる。
自立を余儀なくされる。自分が自立したくない事実は認めたくないし、自立してしまったら、トラウマを与えた親を罰することが出来なくなってしまう…。

信じられないかもしれないが、エゴはこんな荒唐無稽なプロット(脚本)を組み立てる。そしてその台本を決して見つからない無意識の中にしまい込むのだ。

もしかするとアドラーは、この巧妙な目的を暴きだそうとして、エゴの抵抗に遭い、患者に嫌われたことだろう…。 

今更だが、ここまで長々と書いてしまったが、私が言いたかったのは、アドラー心理学の分析でもなく、本の紹介でもなく、レビューの人達のフォローでもない。

「嫌われる勇気」

何故か、このタイトルに違和感を覚えた。
この本がこれほど売れたのは、内容よりもこのタイトルだろうと思うけど。
タイトルって大事だ…。(笑)

しかし、すぐさま違和感を悪者扱いするのはいかがなものか? さっそくリアルタイムに、このブログを書きながら、私はその答えを探ってみることにした。

長い前置きになったが、これから本音とやらを書いてみよう。どうか、よかったらおつきあいください。(つづく)