タオ ー 名も無き詩

タオという名はあまり一般的ではないかもしれません。

中国三大宗教に、「仏教、儒教、道教」がありますが、その中の道教のことをタオと呼ぶのです。

タオとは「道」のことで、中国語では、daoまたはtaoと表記されます。

道教は、老子の思想、教えそのもので、代表的な書物では「道徳教」などが有名です。

しかし、私自身がこのタオイズムに触れたのは、もっと迂回した道の上でした。

1989年にベンジャミン・ホフが書いた「タオのプーさん」という本に触れ、はじめてタオのまか不思議な世界を垣間見たような気になりました。しかし、その本質を理解はできず、長い年月を過ごして来たように思います。

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タオのシンボルマークである対極図(陰陽図)には、白と黒の勾玉が互い違いに象られています。これを早とちりして、タオとは闇と光の世界なのだと勘違いしていた時代もありました。タオの解説には、よく両極を以て中道を知るという考えが紹介されていますが、これも早合点すると、タオとはバランスを取ることを示しているのだ…、と思い込みそうですね。

もちろん、タオはバランスを取ることも奨励しているのかもしれませんが、タオの本質はもっと大きなところに有るようです。

「バランスを取らなくてはならない」という考えには、それ自体両極に意識がぶれている状態を示しています。つまり、意識は二つに分かれた極に捕らわれている状態から解放されていません。
拮抗する力や存在に在りながら、そのどちらでもない部分がタオなのですが、中心という概念も両極があるからこそ生まれる言葉です。

表現アートセラピー画像3もともとタオ(道)自体は、言葉や名前など持たない存在でした。

創世記によると、名前を持つことで個性が現れ、そこからやがて果てしない対極という争いがはじまりました。

タオは、争うことに意味を見いだしません。すなわち、対極そのものに意味をもたらしていないのです。これは、考えていくと、不思議な話です。なぜって、対極はお互いの存在を表すために生まれたのですから。

対極を対立するものとして捉えれば、争いが生まれ、お互いが支え合うものと捉えれば和合が生まれます。しかし、完全に融合することを善しとしてしまったら、何のための対極でしょう?そんなわけで、果てしない問いは続きます。

表現アートセラピー画像4タオ(道)という言葉には、自然という意味が含まれています。
自然には、良い悪いという概念はありません。あるとしたら、それは人間が意味付けたものでしょう。
宇宙や自然の中に流れる、普遍のエネルギー
そのものが、タオなのです。

恐れ多くも、そんな壮大なエッセンスが、今回のワークショップのテーマでした。

まず、中道を知るために、対極を探ってみました。たとえば、光と闇について。

少し話が横道にそれますが、光と闇といえば、アーシュラ・K・ル=グウィン作のファンタジーノベル「ゲド戦記」を思い出します。しかし、ゲド戦記は単なる闇対光という、勧善懲悪の世界を描くような単純なものではなく、その対局が生まれる背景や、タオの真理にも似た統合の世界を表現したハイファンタジーです。

表現アートセラピー画像5しかし、単純に戦いというと、どちらかに軍配が上がるという先入観が働きます。

世の中を見渡すと、映画もゲームも戦いという話題が多いようです。つくづく人間は戦いが実は好きなんだなあという、印象に落ち着くのです。

さて、話を闇と光にもどすとしましょう。

ワークショップの中で、自己の中の闇と光の部分を表現するというワークを提供しましたが、この中に、禅問答のような答えの無い問いが盛り込んでありました。

人間は、当たり前なことのように、長所や短所という価値判断をもって自分を評価してしまいます。多くの人が自分の欠点について、自信を失い、それを隠したがります。長所やポジティブな面については、積極的になります。しかし、この両極について自分を分けること自体がおかしな話なのです。

表現アートセラピー画像6試しに、自分自身のポジティブな面を50項目、ネガティブな面を50項目書き出してみてください。すると、どちらにも、同じ項目にでくわすことがあります。

たとえば、強いという項目が長所にもなれば、短所にもなり得ます。
強さと強情、というように。

または、自分の長所に優しさをあげたとき、短所に不親切をあげることもあります。

実際に、自分自身を一言で表してくださいという問いにこのように答えた人がいました。捉えようによっては、矛盾しているように見えますが、これは時間という概念を加えると理解できます。

つまり、同じ人間でも、優しいときもあれば、優しくない不親切な状態の時も経験するということです。優しさは状況によっては、優柔不断というレッテルを貼られる場合もあります。要は、その状態を捉えるときの心境が、肯定的か否定的か?によって判断が異なるということなのです。
すると、日頃、自分が自分に対して下している評価も怪しいものです。かつて、いろんな場面で自分に下した評価によって、私達は制限されているかもしれないのです。だとしたら、本当の自分について、自分がどれだけ把握しているのでしょうか?

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このように、人はあるとき、自分を見失う瞬間があります。

すると、自分を知りたい。自分を探したいという気分になってくるのです。

そういう意味で、ワークショップは、自分探しの現場といえますが、ここで、また一つの疑問が沸いてきます。

自分を探すって何?という問いです。

自分が自分を探すって、矛盾していますね。まるで、かくれんぼを独りでするようなものです。
それでも、この自分を探すっていう経験は面白いのです。
探している間に何かに出くわすかもしれないし、生まれるものがあるかもしれない。
もしかしたら、探しているものは見つからないかもしれない。
でも、見つけるというそのプロセス自体が面白いからこそ、皆ワークを楽しんで居るのでは?と私は思います。

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そんな、答えのない問いに挑むのが、ワークショップです。
皆、泣きながら、笑いながら、このゲームボードの上で濃縮した3日間を過ごしました。

そしてそこでであったのは、答えなき永遠という問いと、遊び疲れた心地よい疲れだったのではないでしょうか。

最後に、加島祥造さんのタオの詩をご紹介します。
加島祥造さんは、日本にタオイズムを広めたパイオニア的な存在ですが、老子にも似た、自然体そのものの語り口がなんとも心地よい本をたくさん書かれています。タオの神髄を知りたい人、楽に生きる術を身につけるヒントを見つけたい人には、ぜひお奨めの本です。

道<タオ>  名の無い領域

これが道(タオ)だと口でいったからって
それは本当の道(タオ)じゃないんだ。
これがタオだと名づけたって
それは本物の道(タオ)じゃないんだ。
なぜってそれを道(タオ)だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名の無い道(タオ)の領域が
はるかに広がっていたんだ。

まずはじめは
名の無い領域であった。
名の無い領域から
天と地が生まれ、天と地のあいだから
数知れぬ名前が生まれた。
だから天と地は
名の有るすべてのものの「母」と言える。

ところで、
名の有るものには欲がくっつく。
欲がくっつけば、ものの表面しか見えない。
無欲になって、はじめて
真のリアリティが見えてくるのだよ。

名の有る領域と
名のない領域は、同じ源から出ている、
名の有ると無いの違いがあるだけなんだ。

名の有る領域の向こうに
名の無い領域が、
遙かに広がっている。
明と暗のまざりあった領域が、
はるかに広がっている。
その向こうにも…
入り口には
衆妙の門が立っている、
森羅萬象のくぐる門だ。
この神秘の門をくぐるとき、ひとは
本物のLife Forceにつながるのだよ。

老子「道徳経」より
『タオー老子』加島祥造著