参加者の声【パンのワーク(2002)に参加して】

表現アートセラピーのワーク中、異次元にいるという感覚を時おり味わう。
「~でなければならない」とか「~であるべき」という価値判断から生まれる恥辱、欺瞞、罪悪感から解き放たれ、本来の自分に向き合い、つながり(コミュニケーションをとり)、あるがままの自分を表現する–「なる」–からだ。

普段の幾重にもなる鎧を脱ぎ捨てた、あるがままの自分は、あるがままになったワークショップの仲間たちを偏見や評価なく受け入れ、共感しあう。
そのコミュニケーションの円滑材として、色、形、身体、動き、音、詩などを使い、お互いの傷、苦悩、憎しみ、喜び、感謝、感動を六感(視・聴・嗅・味・触の感覚および直感)を通して分かち合う。

初めての表現アートセラピーは戸惑いや苦痛が伴うものだ。あるがままの自分になるなんてとんでもないことだ。こわい。しかし、葛藤や不安は数を重ねるごとに薄らぎ、表現することに喜びさえ覚える。そして、自分は何なのか、何を感じているのか、何のために生きているのかといった、人間の根本的な問題に取り組むことができる。

これまでに体験したワークは自分にとってどれも大切だが、2002年5月に北軽井沢のアトリエで行われた、「パンのワーク」は特に印象深い。

ここでわたしの日記の一部を紹介したい。

5月4日(祝)晴れ
今日は、朝7時からパンのワークだった。
コーチのYさん(プロのパン職人)が、パンの材料を混ぜ合わせ、それをみんなに等分してくれた。打ち粉をひきながら自分のパン生地をこねていく。
わたしは「自分」をテーマにこねだした。一生懸命、答えを導き出すように、無言でこねた。みんな真剣だ。仲間の1人はちょっと大変そうに苦闘していた。
30分ぐらいこねても、コーチのYさんから、「もういいよ。」が出ない。「まるで、神様がチェックしてるみたいだね。」と、みんなで笑った。
人生が簡単じゃないように、時々、神様が私たちの人生の途中で、
「うううん。もうちょっと。あと少しがんばっておいで!」といっているかのようだ。 やっとのことで、YさんからOKをもらった。

わたしは、なんと10人のうちで最初に合格をもらった!やった?!
となりの仲間が、「やっぱり、真剣にやってたからだねぇ。」といってくれた。 第一発酵が終わるまで、わたしはベイスメントのサンデッキで少し休むことにした。昨日の感情がまた戻ってくる。

今までとは違う、すっきりした感情だった。でも、涙が止まらず、しばらくの間、自分のその素直な気持ちを受け止めることに専念した。

1時間ほどたって、家の中にもどると、みんなはパンの成形にとりかかっていた。オーブンが小さいので、そのままの大きさでは無理だといわれ、2つにカットすることにした。小さいほうは「自分」を表現する方で、もうひとつは、東京の家で待っている夫に持って帰ろうと思った。

「自分」は、卵から羽がついた小鳥と変身した。
目はカレント、くちばしには、ドライパパイヤを使った。
自分でいうのもなんだが、かわいいやつが出来上がった。とても満足だった。
パンが焼ける間、みんなで下でワークをやった。
曼荼羅を前に置いて、体を動かすというものだ。

昨日描いた絵は乾いてきれいに見えた。もっと汚い色にしたかったのに、今日見ると全然違って見えた。
外にでた。曼荼羅を置き、目を閉じて、自分の気持ちを聞いてみた。
自然と、頭やお腹を抑えて、苦しむ動きとなった。
手を大きく広げてみたりもした。部屋に戻り、みんなで話し合った。動いてみた時の気持ちや、そのあと何を感じたか、など。わたしは、お腹を抱えて動いていたとき、哀しかったが、その自分はもう消化され、新しい自分となって清々しい気分がした。

パンが焼けた合図のベルを鳴った。
みんな、興奮して、一階に上がった。
わたしは、急いで小鳥のところに行った。「あれ、目がない。」
Yさんが、申し訳なさそうにしていた。どうも、取れてしまったようだった。
照りを出すための卵が小鳥の目の辺りを流れていて、まるで泣いているようだった。
「本当に、わたしみたい!」と、思った。

「水と作ったパンだけを、無言で味わって食べきる」というのが次のワークだった。
エリさんが、一言いった。
「このパンが出来上がるまでのことをもう一度思い出してみてください。」
「そして、自分がどう感じながら生地をねって、形を作ったのか。準備ができたら、食べ始めてください。」

わたしは、目を閉じて小鳥のおしりのほうから食べ始めた。
一口入れて、しっかりと噛みしめた。とても小麦と砂糖と塩からできた物とは思えない、微妙な味がした。一生懸命こねあげたパン生地はとても愛らしく思えた。

「神様は、人間をこんな気持ちで創ってくれたのかな。」と思った。

新しく生まれ変わって、飛び立とうとしている勇気ある小鳥をイメージして、「自分」を表現してみたので、それを食べるという行為は、その「自分」を受け入れ、責任をもって生きていく、ということだった。

途中、目を開けると、泣いているエリさんがいた。
その隣で、幸せそうに食べている仲間がいた。なんだかうれしくて、涙があふれだした。
小鳥の頭を口に入れて、目を閉じて味わった。
「甘い!そう、人生は甘いんだ!」
その甘さは、ドライパパイヤと思っていたら、なんと埋もれてしまったカレントも含まれていた。
Life is full of surprise! (人生って驚きの連続だ!)

この素敵なワークが終わって、そのままランチに移行した。
おいしいトマトのサラダや、カマンベールチーズを軽くオーブンで焼いたものなど、シンプルだけど、こんなに心もおなかもいっぱいになるご馳走なんて初めてだったことが、今でも心に残っている。