認めるということ

いつも夏は涼しさをもとめて北の家でワークショップの日々を過ごします。今年はどんな人に出会うのだろうと、いつも楽しみにしながら。

5日間も山のアトリエにこもり、自分について取り組む時間は特別なものです。ここで偶然集まった人は、出会うべくして集った人たちなのだと、いつのときも確信します。

何かを知りたいと思ったとき、本当に降ってくるように答えがやってきます。それは意図しない形だったり、はじめは答えなのだと気づかない形で。気づきとは、考えて導き出すものではなく、ふと気づくとそこに在るようなもの。そんな気づきとの出会いを皆がした夏でした。

今年は例年の表現アートセラピーテクニカル講座と、マインドデトックス基礎コースがありました。

自分という存在について、表現アートというアプローチを通して深く探求することを、これまでにやってきました。
なぜ、自分について知る必要があるのか?なぜ私という存在について考えなければいけないのか?
それらの答えは人の数だけあるのかもしれません。

表現アートセラピー画像2ただ、自分について知ること、理解すること、その必要性はあるときふいに沸き起こり、憑かれたように取り組む時期があるようです。いろんな理由があると思いますが、一頃流行っていた「自分探し」とはちょっと違うような気がします。

探すのではなく、在るところは解っている。
自分の一番触れたくない場所。
一番探しにくい場所、その盲点となる場所は、探している人の中。

そして、もっとも見えないのが、自分の闇です。

自分の闇と光のイメージを画くというワークがありますが、皆 一様に想像力を使って、表面的なネガティブな一面を表現したりします。
すると、何かピンとこないのです。

人は一番観たくない一面を、一番苦手な人間関係の中に見つけます。
そんな闇は自分には存在しない。
そう誰もが思います。認めたくない一面です。

表現アートセラピー画像3こんな事を書いて、もしかしたら異論を唱える人は沢山いるかもしれませんが、少なくても私自身はこの原理に、ため息をつくほど納得するのです。一番切り捨てたい部分を自分が見捨てたとき、その機会は永い時間闇に葬り去られます。

自分を救う手立てが、ヒントがそこにあるのに。

自分がその闇に続く扉を開けて、それに光をあてたとき自分の全容が見えてきます。隠しようもない弱さや、卑屈さや、鳥肌が立つような有様が。
しかし、それに嫌悪し抵抗している限り、自分を知る由はないのです。

こうしてこんなことを綴っている理由は、自分を卑下したり、反省するべきとだというのではありません。

ただ、自分が認めたくないと感じているその部分を、批判をせずにただ見つめることが新たなステージへの道しるべになると思うからです。

自分を不当に扱った相手の行為も、世の中の目をそむけたくなるような不条理も、自分がそれに反応する限り、それは自分の中に闇として存在するのです。もっと複雑になると、その不当な行為も不条理も、自分が悪いから経験しているのだと諦めてしまうことも、結局は自分の闇を観ない行為と同じです。

表現アートセラピー画像4闇を観ることは、自虐的になることとは違います。
ただ、起こっていること、在るものを、在りのまま認めること。

認めたとき、それらは握りしめた掌からほどけて、離れていきます。
それは、ただの幻想だったいうことを体験します。

私はがこのことを参加している皆さんに伝える前に、それぞれが自然とその答えに導かれるように、自分のエッヂ、つまり自分の闇に繋がる戸口まで引き寄せられて行きました。
それは、たぶんグループが無意識に合意して創り上げた現象なのでしょう。言葉にならない感覚を誰もが体験していたと思います。

ワークを終えて、日常の時間の中で、ふとその闇について頭をかすめるかもしれません。自分についての全容を見いだすのは、遠い旅の先かもしれません。しかし、プロセスは流れはじめています。

表現アートセラピー画像5流れを見つめてください。
そして、流れそのものになり、流れを楽しんでください。

沢山、心に閉ざされた塵を解放していく傍らで、私もこの夏はとても沢山のものを手放しました。
自分自身を守る盾や鎧を…。

そんな機会を与えてくれた魂のグループに感謝をこめて。

夏休み最後の海より