禁断の果実~人間関係の秘密(前編)「ひとを嗤うことなかれ」

かすかな胸騒ぎや、ときめき。
もやもや、わくわく、むらむら(笑)

最近私はそんな感覚や勘を「フィラメント」と呼ぶようになった。
ある歌の歌詞にあったその言葉がとてもしっくり来たのがきっかけだった。
世の中で、心に起こる感覚を「フィラメント」と呼んでいるのかは知らないけれど、その歌の歌詞を聞いたとき、「ああ、そうそう、その感覚はそういう名前だよね…」と思ってから気に入って使っている。

人と出会ったとき。
買い物に出かけて気になるモノを見つけた時。
人に頼まれごとをされたとき。
誰かの不意な一言に…。

そんな時、胸の奥のフィラメント(電球の発光部分)の繊維がチラチラと揺れるのだ。
その感覚は人それぞれ、十人十色違う。

それは、自分というパーソナリティ(人格)を形成する大切な指針に結びついている紐のようなものなんだけど、これが緩んだり鈍ると、自分が好きものがわからなくなってしまう。
それは(もしかすると頭の良い人なのかもしれないけれど)思考に頼りすぎて、感覚を置き去りにしてしまっているから起こるのかもしれない。

困ったものだが、案外自分の好きなものがわからないという人が、最近頓に多くなったように思うがいかがだろう?
そんなわけで、今日は異なるフィラメントを持つ他人との関わり、つまり人間関係について書こうと思う。

以前のブログにも書いたけど、「人間の悩みはすべて人間関係から生まれる」というアドラーの考えに倣うなら、人間関係ってとても複雑で難解なものなのだと云える。
人好きな人でも人間関係は悩みの種になるし、人嫌いな人ならなおさらだが、それでも人を完全に遠ざけることは難しい。

一体、人が人と関係を結ぶ時、何が起こっているのだろう?
そこには、何が秘められているのだろう?

表現アートのワークショップでは、この人間関係を扱うワークが多い。
中に、「パーソナルプリズム」という自分の人となりを表す立体のオブジェを創るワークがある。
4面あるうちの3面は、自分自身のイメージを描くのだが、そのうちの1面は、自分の印象を他人(他者)に描いてもらう。わかりやすいところでは、啓発セミナーなどでアイスブレイクに行う他己紹介のようなものだ。

他者の印象とは、つまり客観であり、自分からは見ることの出来ない死角からの視点のことである。
どんなに自分を客観的に観ようと思っても、所詮、自分の目なので主観に過ぎない。
やはり他者の目はごまかしようのない客観なわけで、人はこの客観「人の目」に個人差はあれど、影響を受けている。

「パーソナルプリズム」のワークでは、他者が表現した自分の側面の話でグループで印象をわかち合うようにしているが、見ていると初対面に近い人同士であればあるほど、肯定的な側面を描くことが多い。
よっぽどやさぐれている人(笑)でない限り相手の肯定的な要素を探そうとする。

この時の相手の印象を決めるのが、自分の中に存在する例のフィラメントなのだ。
人は相手の印象をつかもうとイメージを膨らませるときに動くフィラメントの揺らぎに従って、相手の印象を形成している。
対象が良い感じであれ、ネガティブな感じであれ、フィラメントは動く。

そして、それを表現したものが相手の印象となるのだが、ここでよく考えてみてほしい。

超能力者でない限り、その人のオーラをみたり、醸し出す匂いを嗅ぎ取ることは難しい。
※そもそも、超能力者の見ているものも真実なのか証明なんて出来ないしね。

イメージの手がかりは、すべて自分の中に生まれているのだ。もちろん、その人の表情や行動がきっかけとなるけれど、感覚(違和感のようなもの)は、自分の中に生まれている。
だとしたら、相手への印象は、真実かどうかは別として、自分の要素だということになる。

話は脱線しちゃうけど、むか~し観たテレビで、東北のイタコがイギリスのダイアナ妃の霊を降ろして話す言葉が東北弁だったからか、どうみてもダイアナ妃が降りてきてるようには映らない…。(笑)
穿った(うがった)見方をすれば、その霊媒(イタコ)は、自分の中の媒体をチャネルしたのかもしれない…。

たとえ目の前の人が極悪な人だったとしても、自分の中に極悪な要素がなければ印象として感じることは不可能だし、反対に美しい光を放っている人だとしても、自分の中に具わる(そなわる)光に気づいていなければ、相手の光に気づくことはない。

つまり…

相手への讃辞も批判もつまりは自分の要素が共鳴している現象(幻想とも云う)に過ぎないのだ。
それは、シャドウ(投影)の原理と同じだと云える。

心理学の世界では、自分が抑圧しているもの、分離させている要素を他者の中に投影し、それに反応する心理作用のことを「シャドウ」と呼ぶ。
シャドウには、否定的・ネガティブなモノと、肯定的・ポジティブなものがあるが、それらを自分の中に抑圧または、光と闇の両極の影(シャドウ)として他者に投影し、それから逃れようとしたり、コントロールしようともがき苦しむのだ。

さてさて、これは無意識にやっているのだが、そのことに気づかないと悲劇である。

批判や分析が得意な人は、他者を読み解きご満悦になるかもしれないが、所詮は自分のシャドーを数えているようなものだ。
そのようにジャッジ(切り捨て)することで、抑圧や分離が成功する。つまり人間はプライドやコンプレックスを使って自分の中に生まれる違和感、つまりフィラメントの灯を消そうとするのだ。

だから、人間はジャッジする。
苦しくても、ジャッジせずにはいられないのだ。

だって、忌み嫌うものが自分の断片(本質の一部)なのだと信じたくないから。

しかし、そんな所行は不毛である。それは、まるでトカゲが自分のしっぽを切り離して嗤うようなものだ…。

お釈迦様だろうと誰であろうと、シャドウからは逃れられない。光を追い求める人には自動的に影をぶら下げている。それを切り離すことは不可能だ。光と影がこの世界を創り、その中で生きる私達はそのどちらからも逃れることはできない。
これが、人間関係に秘められた真理の一つ…。

だから仏陀は慈悲深く在りなさいと説き、キリストは「人を裁くことなかれ」と説いたのだろう。
他者は自分であり、他者を切り刻むことは、自分をそうしていることと同じなのだから。

いわゆるこれが、バランス、カルマの法則なのです…。

だとすると、批判するとその反動は痛いけど、讃辞ならば心地良く響くかもしれない。
どうせジャッジするなら相手のポジティブな能力や憧れる要素を探したほうが身のためだろう。
*もちろん、意に沿わないことを云うことは、自分に嘘をつくことになるからやめたほうがいいけど。

敢えて云うなら、嫌いな人が多い人、批判せずにはいられない人は、そうとう自分をないがしろにしているのではないだろうか?

袖振り合うも多少の縁…。
出会う人、気になる人は統合を臨む自分の断片だと思って一瞥してみることをお薦めします。

こんな風に偉そうに書いている私にしても無意識に誰かをジャッジしているので、気が抜けない。(^_^;)
案外というか、自分のことって本当に見えないものだヨ。むしろ、自分のことは(人のこともだけど)解らないものなのだと達観してみるといい。どんなに頭では「自分を見た方がいい…」と思っていても、見たくないものは、見えないんだから。

それに気づいてからは、人間関係が悪化したら「チャンス!」だと思って、誰かが自分を映すシャドウ(辛辣な忠告)を参考にして、自分のシャドウを見つけようと心がけている。

…とは云っても、冷静にならないと辛辣な言葉を受け取るのは難しいので、マインドフルネス瞑想で冷静に自分を探るような地道な作業に日々いそしんでおります。

すると…、はい。
昔よりも、うーんと楽になった!

以前は面倒だったけど、これが速攻の解毒薬だとわかるとやらずにはいられなくなる。何よりも、人も自分もあるがまま、丸ごと愛せるようになってきたもの。

そのように過ごすようになってくると、人の目よりも自分の目(他者をジャッジしている目)のほうが気になるようになった。人からどう思われようと、所詮気にしても仕方ない。だって、そんなものコントロールできないんだしネ…。

人間関係は謎です。
多分、有史以来の謎。

でも、その果実(関係)には、沢山の真理が秘められているのです。ぜひ、怖れずこの禁断の果実を味わい人生の醍醐味を楽しみませんか?

まだまだ、人間関係について気づいたこと、思ったこと、次回も書きます。お楽しみに。

人を嗤うことなかれ。
それは自分の闇だから。
人を怖れることなかれ。
それは自分の光だから。
(Eri)

我は万人の友なり。 万人の仲間なり。
一切の生きとし生けるものの同情者なり。
慈しみの心を修(おさ)めてつねに無傷害を楽しむ。
(仏典 Theragatha:608

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