表現の危機から魂の再生へ 小説『デュオニソスの蛹』との出会い

ブエノスアイレスへ移住したナポリの画家、麗しき流転の双子、血の絆をもたない男だけの一族、アルカンジェロとレオンをつなぐカトリック伝統の「奇蹟の治癒絵画」……。
禁断の愛と秘められた傷が織りなす神話の迷宮世界。迷宮にとらわれた魂の再生の物語。
(東京創元社 ウェブマガジンより抜粋)

表現アートセラピー画像1海に春の強い風が吹きはじめた日の朝、一冊の本が手元に届きました。
ディオニュソスの蛹」というギリシャ神話の神の名が記された本の装丁に描かれているミノタウロス(牛頭人身)の絵がなぜか懐かしく、どこかで目にしたことがあるような錯覚を覚えました。

送り主は版元の東京創元社。アートセラピーを題材にストーリーが展開されていくその物語を書くために、著者は自分自身でアートセラピーを体験したそうです。

縁が巡って私のもとにやってきたその本は、小説の著者でもある小島てるみさんからの献本でした。
この数年、文学小説を読む暇もなく日々を過ごしていた私にとって、それは思いがけない贈り物のように思え、ワクワクしながらその本の表紙を開きました。

小説の舞台は南米ブエノスアイレス。
情熱的なアルゼンチンタンゴで有名なブエノスアイレスが、名だたる芸術の街であることを、私はこの本を読んで初めて知ったのでした。

表現アートセラピー画像2物語は主人公のアルカンジェロが、唯一の肉親である兄を捜すため、生まれ故郷のナポリからブエノスアイレスへむけて旅立つところからはじまります。
数奇な運命で繋がれた兄弟が、命の由来を巡り苦闘しながらも、自身のアイデンティティーを見いだして行く幻想的で深淵な物語が、外国文学を思わせる叙情的な表現で綴られています。
話の持つ重厚なイメージとはうらはらに、アップテンポなプロットは、寝る間を惜しんで読みたくなるほどのパワーを秘めていました。

物語に登場するアルカンジェロとレオンの兄弟の叔父にあたるスールは、アートを通して人を癒す能力を持つことから、表現アートセラピーの手法を使い、兄弟の心の扉を開ける手伝いを申し出ます。
自分を表現することに怖れを抱きながらも、二人は次第に封印していたその扉を開けはじめるのですが…。

自分の中から生まれ出でる感情、欲求、衝動をたちまち絵にするということは、在るがままの自分を経験する一番シンプルな方法かもしれません。
しかし、私達の多くは、そのシンプルな方法(表現)が、実に危険な行為に思えるような経験を学童期に積んでしまいます。

それは、その小説の中のアルカンジェロのように、自分の描いた絵が母親を殺してしまうようなドラマティックな体験ではないにしろ、「あなたの描き方は下手だ」「あなたの考えはまちがっている」という自我を強く否定される言葉によって、たちまち表現は危機にさらされます。

表現アートセラピー画像3私達はこれ以上傷つかないために、自分の表現や創造を深い蔵のなかへ閉じ込めてしまいます。
そして、虚無な人生をぼんやりとしながら生きるのです。
そんな表現は少し大げさかもしれませんが、絵を描きたいという衝動や、在るがままの感情を封印してしまった弊害は、私達が想像するよりも深刻だと思えます。

なぜ私達は感じたままを表現することや創り出すことに、こんなにも躊躇してしまうのでしょう?
実のところ私達は、「在るべき表現」から「在るがままの表現」への機会に恵まれているのですが、それを制限しているのは誰でもない自分自身なのです。
それは、ただあまりにも傷つき、悲しく、恥ずかしい、痛みの記憶が制御しているのです…。

物語の中で、魂の叫びを封印してしまったアルカンジェロの肉体には、三日月に象られた聖痕が現れます。
その傷は、魂の再生を促すかのように、決まって毎月の新月の日に原因不明の出血を繰り返すのです。
まるで女性の月経を彷彿とさせるアルカンジェロ に起こった現象は、もしかすると、人間の持つ自浄作用の能力を表しているようにも思え、自らの性や人間の本能について、あらためて振り返るきっかけを与えてくれました。

表現アートセラピー画像4スピリチュアルな視点から見ると、私達人間は完全であり、神に似せて象られたという説があります。
または、ギリシャ神話にでてくる神々も、それはまるで生々しいエゴをかかえた人間達と変わらず、苦悩し葛藤する姿が記されているように、完全であり、かつ未完成でもある人間そのものだといえるのです。
そして私はあらためて、人間が自分を制限するきっかけとなる「怖れ」について興味がわき、自ら封じている「在るがままの表現」とは何だろう?と考えはじめました。

答えは、もしかすると無いのかもしれません。
それは、私達の心が形なく、ただよう雲のようだから。
それでも、問いつづけ人間は生きているのです。

物語の結末は、これから読む人のためにここでは伏せておきましょう。
読後感は、上質な大人のファンタジーに出会った心地よさ。
刹那的に生きていた登場人物達に纏わる重々しい世界を描く本のイメージとは異なり、人間のリソースと信じることの大切さを思い出させてくれる、良い意味で期待を裏切ってくれたストーリーでした。

表現アートセラピー画像4著者の小島てるみさんの作風は、どれも異国の匂いに満ちて、芳醇で幻想的なストーリー展開が魅力だと、あちこちのレビューなどでも話題になっており、間違いなく私もこれからはファンの一人になりそうです。

個人的にとてもうれしかったのは、著者が表現アートという媒体に出会い、この作品を生み出してくれたことにより、この本と出会うチャンスをもらえたこと。
そして、本を閉じた後、思いがけず無性に絵が描きたくなったことでしょうか…。