「自由に生きる」~ Into the Wild

「制限されず、自由に生きるにはどうしたらいいか?」という質問をもらいました。

自由って何だろう?
あらためて考えてみると、『自由を体験する(自由に生きる)ということは、自由を獲得する』という言葉が浮かんできました。
本来自由という状態は、たとえば束縛から解かれたとき、改めて感じるものなのかもしれません。
自由な状態は、ずっと感じつづけると、しだいに不自由感が生まれるものです。それは相対の世界に住む私達の宿命だから。

そういう考え方を突き詰めると、自由とは、不自由という束縛や制限があるからこそ存在するということになります。
たとえば、与えられた材料で好きなものを創る自由と、すべて自由な空間や条件(束縛や制限)がないところで何かを創る自由。その二つの状況の中では、創るというコンセプトは同じなのですが、自由感が異なります。何を創っても良い自由と、与えられた材料を好きなように使える自由。

表現アートセラピー画像1無条件の自由と、条件付き自由。

一方、自由について考えるとき、こんなことに気づきます。

子供は自由な存在なのですが、自由を楽しめるのは、安全な場があるからこそ。
大人が守ってくれる空間がないかぎり、自由を楽しむことはできないでしょう。

安全を確保できない自由〜たとえば、一人きりで荒野に置き去りにされ、自由に何でもできるけれど、不安な状態。
これでは、自由に意識が向くことはなく、不安なことがクローズアップされます。つまり、真の自由を獲得出来るのは、大人が安全を確保し(制限や限界を設定し)、子供がその中で自由を体験するという二つの相対する行為が同時に行われる時だけなのかもしれません。

子供の自由を確保するために、大人は何らかの責任を果たす必要が生まれます。
私達はもはや子供ではありませんが、自分自身の自由を確保するときにも、同じ必要が生まれるのかもしれません。
すなわち、自由と責任はセットになっているのではないかしら…。

表現アートセラピー画像3さらに、こんなことも感じます。
究極の自由は孤独とセットになって居るのかも…。
本当に自分の好きなことだけを貫き通そうと思ったら、一人で行うことが理想的です。

孤独と言えば、映画「イントゥーザワイルド」の中で描かれていた青年の孤独な旅は、とても印象に残るものでした。
20年前のアメリカで実際にあった話を、ショーン・ペンが脚本・監督したメロディアスなロードムービーです。(注・ネタバレなので、見たい方は後で読んでください。)

エリート気質の強い父親に抑圧された機能不全の家族の中で葛藤し、自分を表現する自由を押し殺して生き続けた子供時代を送る主人公は、ようやく親の希望である名門の大学を卒業した後に、すべてを捨てて放浪の旅に出かけるのです。その旅の中で彼は本当の自分を探し彷徨います。夢だった「一人きりで荒野に生きる」生活を実現させたのですが、本当に求めていたのは、孤独ではなく、人との繋がりだったことに気づきます。
人間は孤独が持つ痛さを乗り越える前に、自分と向き合うことを避けて、応えてくれる誰かを求めてしまいます。孤独が持っているのは痛さだけではなく、人と自分との境界であり、その隔たりを認め、受け入れることができるからこそ、自分の自由を獲得することができるのに。

最後に彼は、自由や真実を超えて、何が幸せなのか?という人生の意味について学ぶ旅だったことを受け入れはじめるのです。

表現アートセラピー画像2映画は一見、悲劇的に見える結末を迎えるのですが、彼の生き方は、自由についてとことん実験し、体験しつくした満足感さえ感じさせるほど、ある種の開放感を感じさせるものでした。それは、はじめてこの世界で制限のない無条件の自由を獲得した喜びと、焦燥の入り交じった体験であり、エッジという場所から見た本当の自分の姿だったのかもしれません。
自由、そして幸せについて、この映画は人間の心の乾きを饒舌に語っているようでした。

自由を経験することがすなわち、幸せとは限らないでしょう。
不自由な中に、幸せを見いだすことも出来るからです。
要するに、すべて自分の意識が判断することなのでしょうけれど、みな何かを探している間に、自分にとって何が大切なのかを忘れてしまうのかもしれません。

すべては自分が求めているものが何なのかを、知ること。
真の自由とは、自分の魂が赴くままに生きることなのだと思うのです。