愛する勇気~自己を愛するレッスン~最終話

卵が先か、鶏が先か。

自分を愛せないから自分の好きなことがわからなくなったのか、自分の好きなことがわからないから、自分を愛せなくなったのか…。

同じテーマで徒然に書いてしまったが、要するに自分が何が言いたかったのか、ここまで書いてようやく気づいたことがある。

「嫌われる勇気」というフレーズへの違和感は、私がその違和感を「嫌悪」なのだと気づいたことからはじまり、自分が何を思い、何を感じているのかを知ることとなる。それは、自分を愛するために「違和感をたよりに、自分軸を何度も取り戻す」ことを提案することだった。

自分軸を保つためには、自分の「好き」を手放してはいけない。誰がなんと云っても、(たとえ、誰かから嫌われても)自分の好きを見失ったら、自分を見失ってしまうからである。

暇つぶしの娯楽は、本当の好きを見つけにくくしてしまう。それは、欲求不満を解消するための「好き」である。習慣化しているゲーム遊びや、ストレス解消のためのショッピングや、暴飲暴食。

それらは、好きだからやっているようでいて、実は自虐的な行為なのだと気づけない。そして、たとえ一瞬、欲求が満たされても、またすぐに枯渇してしまう。

そんな刹那的な偽の「好き」を追い求めることは、自分軸を創ることとは、ほど遠い。

真の「好き」とは、心が揺さぶられるもの、感動できるもの、魂が喜ぶものが基準となる。

真剣に何かを選ぶとき。チャレンジする時、創造性を発揮する時。それは、納得するまで取り組むことを薦めたい。しかし、それは面倒だったり、億劫だったりするので、多くの人は妥協してしまう。そしてそれが自分の限界だと思い込む。

そんな妥協の起源は、遠く子供時代に遡ると見つかることが多い。

子供は、親に頼らなければ生きて行くことができないことを本能的に知っているので、親の顔色を見て育つ。素直な子であればなおさらだが、少々反抗的な子供であっても、多少は気を使う。そうやって、多くの人が自分の好みや善し悪しの判断を親に差し出してしまうのだ。

面倒だったり、甘えから他人に依存するためには、相手(親)に、嫌われることは致命的だ。そうやって、多くの人が、しぶしぶ親が選択したものに従い、良い子を演じ、自分を押し殺す習性を身につける。

成長してからは、学校や職場などで関わる人間関係の中でそのパターンがエンドレスに繰り返されるのだが、私たちは、それがどれほど理不尽で、窮屈な生き方なのかを気づきながらも、やめる手立てが見つからない。(…というか、面倒だから見つける気もないようだ)

だからと云って、何もかも親や社会のせいにしていてもはじまらない。いい加減に自立して、自分を解放してあげよう。何と言ったって、自分でもう歩けるのだから。

自分を愛するレッスンは、ここからはじまる。

大切だから言っておくけれど、自分の「好き」は、人にわかるものではない。 決して他人にその軸(基準)を預けてはいけない。(親子でも夫婦でもNG! (>_<)

もう一つやっかいなのは、この「好き」が明確でない人が多いことだ。実際に好きなことが無いわけではないのだが、どうやら自分でそれを認知できないだけなのだ。 しかし、皆この「好き」を大げさに考えているのだろうって思う。それは、心の奥で微かに動くフィラメント(電球の光の芯の部分)のようなもので、非常に繊細だけれど、大切な箇所を誰でも心の奥底に持ち合わせている。だから、他人にわかるはずもないし、それに気づき、尊重することがどれほど大切なのかがわかるだろう。

自分の「好き」を大切にするために、人から嫌われることを心配する必要などない。

本当の「好き」を体験したら、人からどう思われるか気にならなくなるし、実際に嫌われたりなんかしない。

あなたを嫌う人がいるとしたら、その人はあなたを思い通りにコントロールできないことが面白くないだけなのだ。

大切なのは、在るがままの自分を愛することだけ。

そのための、有効な方法でもある「コンパスの法則」を紹介しよう。

自分が本当に好きなものは何か? 模索している人や、人との境界線を健全に保ちたい人、そして自分を大切にするために役立つと思う。

まず、心に一つのコンパスをイメージしてみよう。その軸脚(針のある部分)を自分の中心に置いてみる。

頭を駆け巡るストーリーテラーの思考<頭>でもなく、感傷的な感情<胸>でもなく、お腹のもっと下。

日本人には、腑に落ちる、肝が据わる、という言葉があるが、そこを探ってみる。(その場所の特定は、個人差が少しあるが…)

一般的には、下っ腹の丹田という場所をイメージしてみると良いだろう。ここは、どんなに悩む時、怒りに苛まれている時にも、不思議と静かにどーんとしたものが座っている場所だ。※これを探るには、あのマインドフルネスのアプローチが役に立つ。そもそも、マインドフルネスとは、そのために発案されたものなのだから当たり前だけど。

そこに、何と…、「真心」という本物の気持ちが鎮座しているのだ。あの「本音」や「下心」は簡単に変わってしまうものだが、真心は普遍的なものだ。個人の「良心」もここから生まれる。※あの「好き」を察知するフィラメントとも異なります。

これって、不思議と親から教わるものでもない。立派な親なら、この真心を使って子供と対話するから、親から教わる人もいるが、そうでないケースが多い。
この真心は、考えるものでもなければ、感じるものでもない。

据(す)わる・・・もの。

真心は、ただ共に据わるとき、その極意が伝わってくる。それは、打算的でも、気まぐれでも無い。
悠々として、太っ腹である。
「まあ、いいか」と笑う余裕がある。

もしも、あなたが誰かと対立し、違和感を感じているとき。または、相手から嫌われることを心配して居るとき。心揺れる時。 混乱するとき。そのまま、考え行動するのではなく、ひとたび深呼吸をしてから、そこに意識を据えてみてほしい。

まずは、自分の真心を探り、そこに意識のコンパスの軸足を置いてみよう。あの「好き」を感じるセンサーは、ここにある。じっくりと、この場に留まっていると、安心が涌いて来る。時には、必要な直感がやってくる。

さて、次に、もう一方の脚を外側の世界に向けてみることにしよう。そこは、I空間とWE空間の境界線であり、相手と出会っている場だ。

初めは、あの違和感から始まる。

違和感とは、異なるものを避けたい本能であるが、それは自分は守らなければいけない非力な存在だという、あのエゴの幻想(マインドコントロール)なので、騙されてはいけない。そう、あの自分を縛りつける洗脳者は、自分のI空間の中にも存在していたのだ。

だから、考えには気をつけよう。そもそも、考え自体が言葉のごった煮であり幻想だし、幻想などバーチャルなのだから。

大切なのは「直感」と「感覚」だ。(感覚はリアルで、バーチャルではない)感情もリアルだけど、ついつい観念で捉えてしまいがちだ。感情よりも、もっと深い所にある感覚を信頼してみること。

勇気を出して、I空間から違和感へと飛びだそう。

怖れていたら、一生カゴの中の鳥として生きる事になる。むしろ、その違和感や怖れが起こるところが、コンパスのもう一方の穂先を向ける場所なのだ。

軸足を自分の真心に据えたら、もう一方の穂先を、違和感の感覚に宛ててみる。そして、その地点からぐるりと円を描けば、それが今の「自分」というアウトラインとなり、それこそが「自分」という限界点なのだと気づくだろう。自分がなんたるかは、その円の中に収まるから、それを探れば自分が理解できる。自分を見失っている人はぜひ試してみてほしい。

WE空間にある違和感をただ感じていると、不思議と相手の真心も伝わってくる。大切なのは、相手も自分も、どちらもOKだということ。在るがまま、OKなのだと理解することが大切だ。

自分を押し殺して、自己主張をしなかった人が、心理学を学んで表現する勇気を持ったとたん、攻撃的に自己主張する事態がよく起こるが、これはバランスを欠いたケースだ。行き過ぎず中庸を知ることが大切だ。

そして、おたがいの真心を確認できたら次に、視点を二本の脚の中心に引き上げてみる。


それは自分の全体と相手の全体が見渡せる場所である。
自分も相手も、そして世界を客観的に見て取れる。
それは、在るがまま世界を捉えている状態だろう。

この視点で現象を捉え、観察することができたら、たぶんあなたの人生観は180度変わると思う。それも、とても自由で肯定的かつ、創造的になるだろう。

それが、つまり自分を在るがまま愛するという視点だ。

愛するとは、自分のわがままを人に押しつけることでもなく、自分を甘やかすことでもない。そんなことを欲求するから、私たちはいつまでも苦しいゲームをやめる事が出来ないのだから…。

人間は、本当の自分を認める事よりも、誰かに褒められたり、好かれたりする自分になろうとするから、自分から嫌われてしまう。誰かに嫌われることよりも、自分から嫌われることのほうが深刻な問題だと思う。

嫌われる勇気など持たなくても、自分が自分を愛し、受け入れる事ができたらいい。

でも、それが難しいから、自分の在るがままを受け入れ、愛することは勇気がいる。自分が見えないI空間から出て、自分を見守り、受け入れ、そして人と触れあうことは、とても勇気のいることだろう。
でも、それこそ、ホントに大切な勇気なのだ。そして、ホントの自分と繋がった時、怖れがなくなり、勇気も必要ではなくなる。
そのために、I空間にある中心軸とつながり、そのエッジにも触れてみよう。それが、自分と繋がり、他者と真心で繋がる秘訣のようだ。

怖れを感じたり、違和感が生まれたら、怖れることはない。勇気も必要ない。ただ、自分の腹を感じて、そこに据わろう。そして、信頼して相手の真心を探ること。

私たちに出来ることは、こんなにシンプルなことだから、きっと今日からできるはず。

自分を愛することは、勇気がいる。
自分に愛されることも勇気がいる。
しかし、それはとても価値あるチャレンジなのだ。

アドラーは、その理論の中で、「嫌われてもいいから自分を通せ」とは言ってはいない。

人が幸せになるためには、自分自身をトータルに受け入れ、自己一致しながら、社会と共生して生きることを薦めている。

自分を愛するために秘境まで旅することなどしなくていいし、容姿を磨いたり、資格を取得する必要など無い。

ただ、自分の「好き」のフィラメントと真心を信じることからはじめてみよう。

さあ、考え過ぎずに、I空間から外に出て、人と触れあいに行こう。きっと、新しい自分と出会えるはずだ。

人に嫌われる勇気などいらない。
自分を好きを見つけるために勇気を持とう。
それが、自己を愛する練習なのだから。

終わり

関連記事