最後の審判~自己を愛するレッスン3

本当のところ「嫌われる勇気…」の本を読んだ時の印象は、「疑問符?」だった。理論はわかるが、行動できるかどうかは別の次元の話だと思う。
それよりも、ただ言葉だけを鵜呑みにして、「嫌われたっていいんだ~っ」と、突っ走ってしまう素直な人たちのことが気になった。大丈夫かな、転んだあとのことも教えてあげたらいいのに…という老婆心みたいな思い。
それが、このブログを書き始めたきっかけだったけれど、世の中で好評な本を批判するのも気が引ける。

では、それを角が立たない方法で、自分なりの所見を披露する方法は無いものか、あれこれ考え始めたのだが、それをこんな私的な場所でつぶやいてみても仕方ないことに気づいた。
口はばったいことを言うことは、一見勇気がありそうだが、単なる自己満足だし、犬だったらマーキングするようなものだから格好悪そうだ…。

じゃあ、つまらない本音の奥にある、当の自分も気づかずにいるホントの本音を探るために書くことにしよう…、そう思うことにした。

そのためにだったら、違和感やら正当化を見つけては、自分の複雑な思考回路を整理しつつ、つれづれに書いてみるのも良いのかもしれないと思った。それで隠れた自分の本音に気づけたとしたらめっけモノだし…。

実際に、こうして書いてみると、いろいろ気づけて面白い。(時には自己嫌悪するけど)そうとは言えブログというのは、検閲されないメリットはあるけれど、ライターが暴走して毒となる観念を振りまく危険もある。だから、これを読む人はせいぜい、悪気のないご託だと思ってほしいという本音もある。

本音とは面白いものだ。

誰もが自分の本音を隠しながら、他人の本音を知りたがる。だいたい、本音とは隠れているから本音なのだ。
そうでなければ、本音の価値がない(笑)。

誰でも子供の頃は、その価値を知らず、本音ワールドに生きている。子供だから許されるのだけど、成長するにしたがって、だんだんと本音は建前の陰に隠されてしまう。その抑圧したフラストレーションのはけ口は、陰口となって解放されて行くのだろう。

しかし、先に述べたように、本音を云う人が本当に嫌われるかと言えば、そうでないこともある。本音をズバズバ言う人は嫌われもするが、人気も出たりするのだ。
それは、皆、自分が言えない、いわゆる「角が立つ」ことを代理に言ってくれる人を求めているからかもしれない。裸の王様に本当のことを指摘する子供役みたいに…。

毒舌なコメンテーターやお笑いタレントがウケるのは、そんな理由からだろう。彼等は、みんなの憂さ晴らしを肩代わりしてくれる存在なのだ。それが人気に繋がるのだとすると、彼等は嫌われるのを恐れているのではなく、単に好かれようとして、わざと本音を吐いているのかもしれないが…。

さておき、ここでまた別の本音を白状すると…、

「嫌われる勇気」という本が、多くの人に読まれていることに興味が涌いた一方で、本一冊読みたいという気持ちまでには及ばなかった。
それでも、なんとか内容を知ることは出来ないかと考えた末に、アマゾンのレビューを読むことを思いついたのだった。(笑)

すべてのレビューを読んで集計したわけではないので、あくまでも私の印象だが、そのレビューは8割近くの肯定派に対し、2割の否定派、そしてほんの少しの中立派の割合で占められているようだった。

2割の否定派の意見と、少数の中立派の意見に興味を持ち読んでいると、否定派の人たちの中には、本の宣伝文句や高評価のレビューを信じたのに「期待とは違っていた!」と、怒りをぶつける人がいたり、「なんだか、自分を否定されたような気持ちになって更に落ち込んでしまった…」と嘆く人もいた。また、論客肌の人たちは、専門的な知識を披露する辛口なつっこみを展開している。
数は少なかったけれど、中立派の人の見解などは見事で納得させられた。

しかし…、それらがたとえ正しく聞こえたとしても、一つの主観(見方)に過ぎない。アドラーの考えを応用するなら、すべての人がそれぞれ異なる主観(見方)を持っているのだから異なる意見があるのは当たり前だ。

さまざまな主観が集められたレビューを読んでも内容がわかるはずがないのに、当時、私はそうとうこの本を読むことに抵抗していたのだろう、レビューを読めば解るかも、、と本を読まずにレビューを読みはじめたわけだ。
しかし、結局、レビューからその本を把握することは不可能だと諦め、本を手にとることにしたのだった。(長い道のりだ。)

読み始めてみると、例の違和感がカマ首をもたげはじめた。「ああ、人間って…、こんな風に誰かを批判しながら、自分を肯定しようとするんだねぇ…」と自爆してみる。(笑)
感想はといえば、冒頭に書いた通りだが、レビューを先に読んでいたおかげで面白く読めた。

それにしても、批判的なレビュアー達が、「損をした」とい表現を使うのを良く目にするが、本当に損だったのだろうか?受け入れがたい、賛同できない意見と出逢ったことは、損なのだろうか?

人間、誰だって損はしたくないものだ。徒労に終わらせたくないので私は考えた。この本を読んで、何かメリットになったことは?…。せこいけど、私はいつも苦い経験の後にこう思うことにしている。(一種の防衛本能)

メリットは、違和感について興味を持ったことだった。
「これは、何か面白い意味があるかもしれない…」
違和感は、すぐに「嫌な感じ」を呼び起こす。脳はすぐにここで攻撃態勢にはいってしまうが、批判してかたづけてしまったら何も気づけずに終わるだけだ。

お決まりの居心地のよい自分の殻に留まってしまっていたら、体験から何も得るものはない。体験はただの骨折り損となってしまう。たぶん、レビュアー達はそんな気分だったのだろう。

そこで、思い出したのは、<違和感>が自分と他人とを隔てる<境界線>なのだということだった。
そうそう、あの「えっ!私と違うの?」という断絶感。
仲の良い友達が「これ、おもしろよ」とすすめてくれた映画に、まったく共感できなかった時など。(笑)

人との違いが自分という人間を浮き彫りにしてくれる。つまり、他者が居なければ、自分が解らないということであり、異なる意見に出逢わなければ、自分がどんな意見を持っているのか気づかずに過ごしてしまう。

それを教えてくれているのが、あの居心地の悪い「違和感」なのだ。そう、違和感という感覚は、実は役立つアラームのようなものだ。

誰かに違和感を感じたり、嫌うことは自然な感覚なのだと思う。嫌われるのが嫌だから、誰かを嫌わないようにするのは、自分と相手の両方を歪め否定してしまうことになってしまう。

問題は、居心地の悪い違和感を感じるやいなや、相手を責めたり(セーフ!)、自分をこき下ろし(アウト!)、またはごまかす(場外!)審判員が居座っていることにある。あのジャッジマンはつねに自分が違和感を感じる境界線を堺にした外側(他者)のうち、どちらかが正しいか間違っていると主張するのだ。

しかし、人の数だけ真実(固有の視点)があるのだから、比べること自体が無益なことだが、それに気づけずにいるのには、ため息がつきたくなるようなからくりがある。その構造を知れば、あなたは自分のことをもっと愛せるようになれるかもしれないが、そのプロセスはこれから順を追って説明したいと思う。

もちろん、何もかもジャッジしないで生きるなんて離れ業ができる人などそうそういない。そんなこと出来るのは、非二元の世界を生きる悟った人たちだけだ。

生きていれば誰かを嫌うことなど自然なことなのだから。ただ、そんな気持ちが涌いたことを、認めることが大切なのだと思う。
でも、それで自分を守る必要も正当化することもできないことを忘れてはいけない。相手を批判して、自分が正しいと思うのは間違った判定だと思う。
異論があれば、自分の意見としてはっきりと表現する自由を私たちは与えられている。

出来れば陰でヒソヒソぼやくのではなく、異論を相手に投げかけてみること。本心でぶつかれば(それなりの痛みはあるけれど)壁は崩れ深い共感を得ることができるかもしれない。そんな危険なことは無理だと思うなら、その声を無視せずに、自分が聞いてあげるべきだ。

それが、自分や人を愛する練習になる。
愛は技術であり、学ぶことができる。

私たち現代人は、愛に渇えつつも、現実にはエネルギーの大半を、成功、威信、金、権力といった目標のために費やし、愛する技術を学ぼうとはしない。

愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」より

まだまだ話はつづくが、どうか、最後まで審判しないで読んでもらえたらうれしい。続く次の章は、さらに他者との壁を作る本音のからくりについて。少々面倒くさい内容だけど、嫌われてもいいので書いてみよう。(笑)

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